北条氏政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北条 氏政
北条氏政像(小田原城所蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文7年(1538年)(天文8年(1539年)とも)
死没 天正18年7月11日1590年8月10日
改名 松千代丸(幼名)→氏政
別名 通称:新九郎、号:截流斎せつるさい
戒名 慈雲院松巌傑公
墓所 神奈川県足柄下郡箱根町の金湯山早雲寺
官位 従四位下 左京大夫相模守
氏族 後北条氏桓武平氏
父母 父:北条氏康
母:瑞渓院今川氏親の娘)
兄弟 氏親氏政氏照氏規氏邦上杉景虎ほか
正室:黄梅院武田信玄の娘)
継室:鳳翔院殿
氏直太田源五郎太田氏房ほか
テンプレートを表示

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代相模国戦国大名武将後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院武田信玄の娘で、武田義信武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。

氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数か月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。

概要[編集]

氏政は、後北条氏三代当主の北条氏康の次男として生まれた。当初は兄の北条氏親が嫡男として育てられていたが彼が夭折したため氏政が跡継ぎとなった。

永禄二年(1559年)に父氏康から家督を譲られると、以降約十二年間に渡って父との共同統治を行う。当主となった翌年に上杉謙信が関東に侵攻、居城の小田原城を攻められる。(小田原城の戦い)氏政は籠城でこれを撃退し、以後関東で上杉氏と抗争を繰り返す。

謙信の関東侵攻により北条氏は領土の多くを失い、危機に陥ったが氏康、氏政親子は永禄四年(1561年)の生野山の戦い、永禄七年(1564年)の第二次国府台合戦で立て続けに勝利し、関東の覇権を取り戻す。

永禄十一年(1568年)に武田信玄甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻すると、氏政は長年争っていた謙信と同盟を結び(越相同盟)、駿河に出兵して対抗した。北条軍は東駿河を確保するも翌永禄十二年(1569年)の三増峠の戦いで敗北したことにより、戦況は次第に劣勢となる。

元亀二年(1571年)に父氏康が死去すると氏政は方針を転換、武田氏と和睦して(甲相同盟)再び上杉氏と敵対する。氏政は天正二年(1574年)に北関東の要衝関宿城を攻略し、天正五年(1577年)には里見氏を破り上総国を攻略するなど勢力を拡大し、翌天正六年(1578年)に謙信が死去して上杉家で内戦が起こった際には弟の上杉景虎を支援して越後にまでその支配を広げようとする。

しかし、同盟する武田勝頼上杉景勝を支援して景虎が滅びると、氏政は武田氏と再度敵対する。このような情勢の中、天正八年(1580年)に嫡男氏直に家督を譲り隠居する。天正十年(1582年)に武田氏が甲州征伐により滅亡すると織田信長に従属する。

本能寺の変により信長が死去すると、混乱した織田領に侵攻、滝川一益神流川の戦いで大勝して上野国を併合し、さらに信濃にも侵攻して上杉氏、徳川氏と争う。(天正壬午の乱)その後徳川家康と同盟を結ぶと兵を引き揚げ、関東統一を目指し戦いを続け、下野国や常陸国にも勢力を拡大した。こうして後北条氏の最盛期を築き上げたが信長の跡を継いだ豊臣秀吉と対立する。

秀吉の度重なる上洛要請に応じなかったことで秀吉を激怒させ、天正十八年(1590年)に小田原征伐が起こる。氏政、氏直は小田原城に籠城して対抗するも、その後降伏する。秀吉は氏政に切腹を命じ、氏政は自害した。こうして約100年間に渡った北条氏の関東支配は終結した。

生涯[編集]

家督相続まで[編集]

嫡男となるまで[編集]

天文7年(1538年)、第3代当主・北条氏康の次男として生まれる(「北条系図」『群書系図部集第四』)。幼名は松千代丸。ただし、黒田基樹は『石川忠総留書』に「氏政亥五十二」と記されているのを根拠に天文8年(1539年)生まれが正しいとする説を提示している[1][2]。また、天文18年(1549年)に公家の飛鳥井雅綱が氏康の子である西堂丸と松千代丸に蹴鞠を伝授した記録が残されており、そのうち西堂丸は兄・新九郎氏親の幼名と推定できる[注釈 1]ため、残された松千代丸が氏政の幼名であったと推定できる[3][4]

氏政(松千代丸)が産まれた頃は未だ祖父の北条氏綱が健在であり、第一次国府台合戦に勝利して南関東一帯の覇権を確立した時期である。その後氏綱が死去すると、跡を継いだ氏康が河越夜戦に勝利して関東全体の覇者へと躍進していった。そのような過程で氏政は生まれ育ち、成長していった。

嫡男として[編集]

松千代丸は次男であり本来ならば家督相続は不可能であったが天文21年(1552年)頃に兄・氏親が16歳で夭折したために世子となり、北条新九郎氏政と名乗る。従って、氏親が死去してから2年後の天文23年(1554年)6月までに元服したとみられる[1][5]。氏政は元服後、北条家歴代のものであり、かつ兄氏親と同じ、仮名新九郎を称した[6]。父氏康は兄である氏親に全力を注いでいたため、次男である氏政の出来が悪いことは氏康の頭を悩ませることにもなった。天文23年(1554年)に父が武田信玄今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させると、氏政は同盟の証として信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。夫婦仲は極めて良好であった。この同盟により後北条氏の後顧の憂いは完全に断たれ、氏康は関東方面における戦いに注力していく。

氏政の初陣がいつなのかは定かではないが、20歳になる頃には既に氏康の後継者として活動していたことがうかがえる。 永禄2年(1559年)12月23日に父が隠居して家督を譲られ、北条家の第4代当主となる(『年代記配合抄』)[7]。 これは領内各地で起こっていた永禄の飢饉への対応として、氏康が当主を退き、新たな当主のもとで復興にあたっていくものとみられるから、以後しばらくは氏康が領国支配を主導し、両者は「御両殿」「二屋形」などと称される[1]。従って、当主の氏政は形だけの存在であり、実権は父が握っていた。

氏政が当主になって初めての仕事は、北条家所領役帳の作成であった。氏康としては、氏政に早めに家督を譲っておくことで彼に経験を積ませ、氏政を育てるための家督譲渡でもあった。この時点で後北条氏は伊豆相模武蔵上野の全域を支配する大大名であり、氏政はこれを更に発展させていく。

二頭体制[編集]

小田原城の戦い[編集]

家督相続後、氏政が最初に行なった仕事が北条家所領役帳の作成(代替わりの検地)とされている。民意を重視し、検地徳政を行うための内政事情によって代替わりすることが北条氏の常套であった。

永禄3年(1560年)5月、同盟相手の今川義元桶狭間の戦い織田信長に敗れ討死した。これにより今川氏の勢力が衰えていく。一方で越後国では、守護の長尾景虎が氏康によって上野を追われていた上杉憲政を保護していた。今川氏の衰退を好機と捉え景虎は関白近衛前久と手を組んで8月、関東に侵攻してきた。景虎は各地で略奪を繰り広げると上野の大部分の国衆は上杉に寝返り、景虎は上野を制圧してさらに東へ向かい古河城を奪取、厩橋城を上野の拠点と定めて越年した。

そして翌永禄4年(1561年)2月、厩橋城で越年した景虎が松山城を奪取すると鎌倉を占領、さらに関東・南陸奥の諸大名を糾合した10万を越える大軍で小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。一方で小田原城を守備する北条軍は2万程しかなく、後北条氏は窮地に陥ったが、盟友・武田信玄や今川氏の跡を継いだ今川氏真の支援もあり、氏政は父主導のもとで籠城戦で対抗し、上杉軍を撃退する。その後景虎は3月に占領した鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉憲政の養子となり、上杉政虎を名乗った。上杉軍は略奪を繰り広げつつ再度松山城を占領して越後国に撤退していった。その後政虎が第4次川中島の戦いで信玄と戦って甚大な被害を受けると、氏政は信玄と呼応して北関東方面に侵攻。一進一退の攻防を繰り返しつつ、上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返していく。

この合戦で後北条氏は上野や北武蔵、下総を失う結果となったが、既に氏康、氏政は奪われた領土の奪還作戦を練り始めていた。

生野山の戦い[編集]

永禄4年(1561年)6月に政虎(謙信)が越後に帰国すると、9月には氏政は小田原城を出陣して失地回復に向けて動き出した。父氏康、弟で大石氏に養子として入っていた大石氏照と共に裏切っていた勝沼城三田綱秀を攻め滅ぼし、彼の領土は氏照に与えられた。さらに氏政は北上し同じく弟で藤田氏の家督を継いでいた藤田氏邦と合流して上杉に寝返っていた藤田重連を攻め滅ぼし、領国は氏邦のものとなった。さらに御嶽城の安保全隆、忍城成田長泰、南下総の千葉胤富を帰参させて勢力を回復した。さらに下野国佐野昌綱を寝返らせることに成功したが、昌綱はすぐに政虎に降伏している。

氏政と氏康は鉢形城に入り作戦を練ると、北武蔵の重要拠点松山城を攻撃した。しかし太田資正が守る城は守りが固く、上杉軍への援軍要請で凌いでいた。そこへ同盟相手の武田信玄と政虎との最大の戦いとなった第四次川中島の戦いを終えた上杉軍は、松山城を救うため休むことなく上野そして武蔵へと進軍してきた。鉢形城を素通りする上杉軍を氏康が見逃す筈がなく、11月27日に北条軍が上杉軍を奇襲、さらに氏康、氏政の本隊が突撃し、上杉軍は壊滅した(生野山の戦い)。松山城の攻略こそ失敗したものの、これは政虎に対する有効な反撃となった。

生野山の戦い以降、北条軍は各地で反撃を本格化させる。翌永禄5年(1562年)3月、小田原城の戦いの際に里見軍により占領されていた葛西城を奪い返すと、帰参させた千葉胤富との連絡を回復させた。さらに古河城に滞在していた関白近衛前久が上杉軍の各地での敗退に呆れて畿内に帰っていくと、6月に古河城に出陣、1万5000にも膨らんだ大軍で古河城を攻め落とし、関白と政虎により古河公方に就いていた足利藤氏を捕縛した(第三次古河城の戦い)。藤氏は後に氏康か氏政のどちらかに殺されている。北関東の国衆の北条方への帰参は相次ぎ、佐野昌綱、小山秀綱結城晴朝などを配下に収めた。

氏康存命中[編集]

第二次国府台合戦[編集]

房総の安房国の大名である里見義堯は、これまで氏政の父氏康と何度も争い、小田原城の戦い直前には氏康によって本拠地久留里城にまで押し込まれていた。上杉輝虎が関東への侵攻を始めると、義堯は奪われた領土を次々と奪還し、千葉胤富が上杉に寝返ると北条軍の下総の重要拠点葛西城を奪うなど勢力を回復した。さらに永禄5年(1562年)6月に義堯は上総で未だに里見に抵抗する東金城土気城の両酒井氏を攻め、降伏させると亡くなった里見の重臣正木時茂の嫡男正木信茂が下総に侵攻し、千葉の重臣で実権を握っていた原胤貞の居城生実城とその支城馬加城を攻め落とし、臼井城に逃げた胤貞を猛追して臼井城までを陥落させた。これにより千葉氏の領土は東西に分断された。

一方里見軍が奪っていた葛西城は永禄5年3月に再度北条軍が奪い返しており、里見軍は西下総へと軍を集中させる。翌永禄6年(1563年)には里見軍の攻勢は更に激化し、義堯とその嫡男里見義弘が出陣して国府台城松戸城を陥落させた。これにより里見氏の勢力はかつての小弓公方に匹敵するほどとなった。同年11月、岩槻城主の太田資正は江戸城主の一人で北条一門衆ながら、かねてより氏康と氏政に不満を持っていた太田康資を調略して城を乗っ取る計画を立てる。しかしこの作戦は同じく江戸城主の富永直勝遠山綱景により計画は防がれる。体制を立て直すため岩槻城に戻った資正、康資であったが、反北条を貫く父に不満を持っていた資正の嫡男太田氏資が北条に寝返り、岩槻城を封鎖、帰る地を失った二人は国府台城に入る里見義堯、義弘の元へ落ち延びていった。こうして岩槻城を手に入れて武蔵の大部分を再度支配した氏康は裏切り者を庇護する義堯を滅ぼして劣勢を挽回するため里見軍との決戦を模索する。

翌永禄7年(1564年)1月、鉢形城にいた氏康は密かに城を抜けて江戸城に入り、小田原城にいた氏政も出陣した。こうして相模、南武蔵の軍勢20000が江戸城に集まった。里見義堯、義弘も国府台城に入り決戦が模索される。そして2月7日、いよいよ氏康と氏政は里見軍と対峙する。里見軍は15000と北条軍より数が少なかったが、里見軍は精強で押しきれず、反撃されて江戸城乗っ取りを防いだ富永直勝と遠山綱景が討ち取られた。この敗北に氏康は落胆したが、勝利に沸いた里見義堯、義弘は油断し軍の士気が低下した。それを察知した氏政は夜襲を提案、氏康の義弟北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃、氏康が正面から攻勢を仕掛けた。油断していた里見軍はすぐに瓦解し、氏政や綱成の奮戦により万喜城土岐為頼が勝手に撤退し、里見重臣の正木信茂や安西実元を討ち取り、里見軍を壊滅させる大勝利を収めた(第二次国府台合戦)。

この時の氏政の活躍を将兵は前代未聞の総大将である。と感じ取ったという。この勝利によって氏政は下総を再び支配下に置き、さらに南下して上総国に勢力を拡大した上、上総土気城主・酒井胤治らが一時的ながら氏政に帰順している。これに対し謙信は武蔵羽生城などを拠点として対抗する。この合戦は関東の戦局を変えるだけではなく、氏康の氏政への信頼を厚くするきっかけともなる、氏政にとっては重要な合戦となった。

北関東を転戦[編集]

永禄9年(1566年)謙信は臼井城の戦いで手痛い敗戦を喫し、謙信を盟主としていた上野国由良成繁が氏政に帰順した。これに連動して佐野昌綱北条高広らも氏政に帰順し、上野国にも勢力を拡大する。更に氏政の従兄弟で下総国古河公方足利義氏の重臣・簗田晴助も一時的に氏政に和したため、謙信と同盟している常陸国佐竹義重との直接対立が顕在化する。佐竹氏に協調する里見氏、佐竹氏の客将となった太田資正などと臨戦状況となる。

永禄10年(1567年)、里見義堯・義弘父子が上総奪還を目指して侵攻する。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣し、水軍もこの砦と向かい合う佐貫城を窺った。しかし、旧里見配下の国人が侵攻軍に内通、三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、義堯に敗退。上総国の支配権を失った(三船山合戦)。

この頃、駿河国今川氏は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで伯父である当主・義元が討死して以降領国の動揺を招いており、武田・今川間の関係も悪化していた。永禄11年(1568年)12月に甲駿関係は手切となり、信玄による駿河今川領国への侵攻が開始され(駿河侵攻)、義元の嫡男であり氏政の従兄弟かつ義弟でもある今川氏真(氏政の妹・早川殿の夫)は没落した。信玄は北条氏へも今川領国の割譲をもちかけていたが北条氏は駿相同盟を優先して氏真方に加担し、甲相同盟も破綻する。氏政は出陣し薩埵峠まで進出して武田軍に対抗し、一旦は信玄の勢力を追放して駿河の一部を勢力圏に収めた。

更に掛川城に籠城していた氏真を救出するため、武田方から離反した三河国徳川家康と和議を結び、氏政は氏真を保護した。そして自分の次男である氏直を氏真の猶子として、駿河領有の正当化を図った。また、信玄に対抗するために宿敵であった上杉謙信に弟の三郎(後の上杉景虎)を養子(人質)として差し出し、上野国の支配領域を割譲して同盟を結んでいる(越相同盟)。この信玄との関係悪化によって愛妻・黄梅院と離縁するという悲劇をあったとされていた。しかし、近年になって離縁は史料の誤読に基づく事実誤認であるとする新説[8][9][10]が出された。黄梅院が永禄12年(1569年)6月に死去した事実は確認できるため、その場合でも愛妻の突然の死という悲劇を目の当たりにしたことになる。

永禄12年(1569年)9月、碓氷峠から侵攻した信玄は小仏峠の別働隊を併せて小田原城を攻撃するが、氏政は父と共に籠城して武田軍を撃退している。この後、北条氏は甲斐国へ引き上げる武田軍の挟み撃ちを試みる。父の替わりに本隊を率いた氏政は、武田軍を追って弟の北条氏照氏邦等が布陣した津久井領三増峠(現愛川町)より数里南方の荻野(現厚木市)まで進軍。この事態に対し武田軍は、進軍を早めるために小荷駄を捨ててまで迅速に帰国を目指していた。それに比べて追撃が遅延した氏政[11]の到着を待つことなく、三増峠の氏照・氏邦隊は攻撃を開始したため挟撃にならなかった他、津久井城の内藤氏指揮下の予備戦力の津久井衆が武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。武田軍も北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により殿軍の浅利信種浦野重秀が討ち死などの損害をだしたものの、終わってみれば武田軍に敗北し、甲斐への帰国を許してしまうこととなった(三増峠の戦い)。

その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗するが、蒲原城深沢城等の駿河諸城が陥落し、後見役であった父が病気がちになり戦線を後退。元亀元年(1570年)には駿河国の北条方支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河国は信玄によって併合された。

元亀2年(1571年)10月に父が病没すると、氏政は12月に信玄との同盟を復活(甲相同盟)、同時に謙信との越相同盟を破棄した。この同盟は条件の調整不足等より[12]、結果的に対武田対策として十分な成果を得られていない旨の不満[13]があった。元々両氏の戦略観の隔たりがあった上、謙信も越中国の平定の方に力を注ぐようになっていた。

元亀3年(1572年)の信玄の三河・織田領国への侵攻(西上作戦)の際には、諸足軽衆の大藤秀信(初代政信)や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2,000余を援軍として武田軍に参加させ、三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に勝利している。ただし、この戦いで大藤秀信が戦死している。

上杉・武田との戦い[編集]

北条氏政像(早雲寺蔵、土佐光起筆)1670年頃の作

甲相同盟復活後、氏政と謙信の戦いが再び始まり、天正2年(1574年)に謙信が上野国に進出すると氏政も出陣し、利根川で対陣した。しかし謙信の関心は既に越中国に向けられており、決戦には至らなかった。閏11月には父が「一国に等しい城」とまで称した簗田晴助の関宿城を攻め落とし、翌天正3年(1575年)には小山秀綱下野祇園城を攻め落とした。更に下総国の結城晴朝が恭順するなど氏政の勢力は拡大してゆき、上杉派の勢力を関東からほぼ一掃した。天正5年(1577年)には上総国に侵攻し、宿敵・里見義弘との和睦を実現した(房相一和)。なおこの戦いにおいて嫡男・氏直が初陣している。

天正6年(1578年)に謙信が死去すると、その後継者をめぐって謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎の間で後継者争いである御館の乱がおこった。氏政はこの時、下野国において佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、5月に景虎援助のために氏照、氏邦らを越後国に派遣した。8月下旬には氏政自身も景虎援助のため、上野国の厩橋城まで出陣するが、すぐに小田原へ引き返している。

また、これと同時に同盟者で義弟(妹・桂林院殿の夫)の武田勝頼にも援軍を依頼した。勝頼は景虎支援のため北信濃に出兵するが、景勝は北信の上杉領や上野沼田の割譲を条件に勝頼と和睦し(甲越同盟)、勝頼は景虎・景勝間を調停し和睦の成立に至るが、同年8月の勝頼撤兵中に和睦は破綻する。氏照・氏邦は秋に本格的に越後入りを図るも、坂戸城での頑強な抵抗にあって冬の到来による積雪で、無念の撤退を強いられる。翌天正7年(1579年)に景勝が乱を制する形で景虎は自害した(その後、勝頼の妹が景勝に嫁いだ)。

景虎の敗死により氏政は甲相同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃する。天正8年(1580年)に勝頼を攻めて重須の合戦が起きたが、勝負はつかなかった。上野国では勝頼の攻勢が続き、上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っている。

このため、同年3月10日には石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ている[注釈 2]8月19日に氏直に家督を譲って隠居するが[14]、これは在陣中の異例のもので、父に倣い北条家の政治・軍事の実権は掌握したとされているが、黒田基樹は発給文書の分析から、内政面と軍事の一部の権限は早い時期に権限を氏直に移譲して、氏政は外交と軍事の主要部分を担当したとしている[15]

勢力拡大[編集]

天正10年(1582年)2月、織田信長の嫡子の織田信忠を総大将、織田四天王の1人である滝川一益を軍監とした軍勢が甲州征伐に乗り出す。駿豆国境間の情報が途絶していたため当初情報の少なかった氏政は氏邦に上野方面から情報収集させた。その後、伊勢国からの船による情報により、織田の武田領国侵攻を確認すると、これに呼応し駿河国の武田領に侵攻した。3月11日に勝頼は天目山の戦いで正室・桂林院殿と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡した。

信長は滝川一益を上野厩橋城に派遣して関東管領とし、上野西部と信濃国の一部を与え、関東の統治を目論んだ。既に北条氏は氏直に織田家から姫を迎えて婚姻することを条件にして、織田の分国として関東一括統治を願い出ていたが、これについて信長から明確な回答がなかったため、氏政は三島大社に氏直の関東支配と織田家との婚姻祈願の願文を捧げている。また一益の仲介により、下野祇園城を元城主の小山秀綱に返還する等、織田氏の関東支配に協力している。氏政はこの時点での信長の勢威を恐れており、織田氏との友好関係は保たれていた。関東の北条領は一益の文書では南方と呼ばれ、重視されている。

信長公記』によれば、氏政は、3月26日、4月2日、4月3日と立て続けに、端山(たんざん)という人物を使者に、信長に祝儀のための贈り物をしたと伝わる[16]。氏政は長年争った武田家を迅速に殲滅させた信長の軍事力の強大さを認識し、織田家と友好関係を保つことを切望していた[16]。氏政は500羽の雉を信長へ奉げるために京都へ送っている[17]。4月に入ると、佐竹義重、里見義頼、他関東の諸勢力、蘆名盛隆小野寺景道伊達輝宗ら、奥州の諸大名も、信長の代理である一益に使者を送り、貢物をして、信長政権との接近を図っている[18]

しかし、信長は北条氏に好意的な対応を見せず、むしろ刺激するようなことをしていた。また、信長との縁談も円滑には進まなかったのではないかという見解もある[17]

だが6月2日、京都本能寺において信長が明智光秀の謀反により死去(本能寺の変)した。信長の死を知った氏政は当初、滝川一益に引き続き協調関係を継続する旨を通知しているが、氏政と一益の間には表面的には友好関係を維持しながらも互いに不信感が増幅しており[19]、氏政が深谷に軍勢を差し向けると一益もこれに呼応して軍勢を差し向ける。数日後には明白に対立関係となり、両者の間で合戦が勃発する。北条氏は、上野国の半分を掌中に収めていたが、信長の進撃によってそれを信長の代行者である一益に譲らざるを得ない状況になっており[19]、上野国を回復しようという意図は強かったと考えられる[19]

氏政は氏直と氏邦に上野奪取を命じ、5万6千と称する大軍を上野国に侵攻させ滝川軍と対峙した。北条軍は滝川軍の3倍の兵力であり、緒戦こそ先鋒が打撃を受けたものの、数日後の決戦には大勝し滝川一益を敗走させた(神流川の戦い)。この後、北条軍は敗走する一益を追って、碓氷峠から信濃国に進出し、真田昌幸木曾義昌諏訪頼忠などを取り込み、徳川家康傘下として旧武田兵を集めて決起した依田信蕃等を討って小諸城に駐屯し、信濃東部から中部にかけて占領下に置いた。一方、一益の敗走により、信濃国や上野国と同じく空白地帯と化した甲斐国に侵攻した家康は、依田信蕃を通して真田昌幸を調略し、徳川方の小笠原貞慶への肩入れなどにより北条軍と対立した(天正壬午の乱)。この一連の騒乱によって織田家は甲斐・信濃・上野を一挙に失うことになり、一益は失脚した。

その後、甲斐若神子において氏直と家康は対陣したが(若神子の戦い)、信濃国では真田昌幸が離反し、甲斐国においても北条氏忠(氏政の弟)・北条氏勝(氏政の甥)が、黒駒において徳川方の鳥居元忠らに敗北し、甲斐国の北条領は郡内地方の領有に留まる等、情勢は不利となった。このため氏直と家康の娘・督姫を結婚させることで和睦した。領土問題は甲斐・信濃を徳川領、上野国を北条領とすることで合意したが、信濃国の佐久小県両郡と甲斐郡内地方の放棄は不利な講和条件だった。しかも家康についた真田昌幸が、後に上野国の沼田城を北条に明け渡すことを拒んで上杉氏に寝返り、上田・沼田城にて徳川・北条と抗戦することとなり、これらの懸案が後の沼田問題さらに名胡桃事件の伏線となる。

天正11年(1583年)に古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は官途補任により権力を掌握し、これにより関東の身分秩序の頂点に立った。また武蔵国の江戸地域、岩付領の支配を掌握し、利根川水系と常陸川水系の支配を確保、これによって流通・交通体系を支配したため、関東の反北条連合は従属か徹底抗戦の二者択一を迫られるまでに至った。この時期に同地域の支配を確固たるものにするために江戸城を隠居城として政務を執る構想があったとも言われているが、実際には氏政は以後も小田原に居住しており、具体化には至らなかったとされている。

天正13年(1585年)、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴壬生義雄らを攻めると、氏政は那須氏らと手を結んで本格的に下野侵攻を開始し、下野国の南半分を支配下に置いた。また常陸南部の江戸崎城の土岐氏及び牛久城の岡見氏を支援し、常陸南部にも勢力を及ぼした。

こうして、北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石(北条氏の所領跡地に入った家康の慶長3年検地・大名知行高に基づく推測)に達し、最大版図を築き上げた。

小田原征伐から最期へ[編集]

しかし、明智光秀を討ち、信長の天下統一事業を継承した豊臣秀吉との対立が待っていた。

天正16年(1588年)、秀吉から氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否する。京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けた。

  1. 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない
  2. 今月中に兄弟衆を派遣する
  3. 豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる

8月に氏政の弟・北条氏規が名代として上洛したことで、北条-豊臣間の関係は一時的にではあるが安定する。武州文書によると、この頃、氏政は実質的にも隠居をすると宣言している[注釈 3]

天正17年(1589年)2月、評定衆である板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請した。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月に氏政が上洛する旨の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡された。しかし上洛について、氏政は新たに天正18年(1590年)の春か夏頃の上洛を申し入れたが、それを秀吉が拒否したことにより、再び関係が悪化し始める。こうした状況の中の10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた。秀吉は家康、景勝らを上洛させ、諸大名に対して天正18年(1590年)春の北条氏追討の出陣用意を促した。また、秀吉は津田盛月富田一白を上使として北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求している。

これに対して氏直は、氏政抑留か国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことに対して、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した[21]。また名胡桃城奪取事件について、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返ったことによるもので、既に名胡桃城は真田方に返還した旨、弁明している[21]

上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとみなし、12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを発した。これに先立って駿豆国境間が手切れに及んだことを知った氏政・氏直は、17日には北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への1月15日参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至った。そして天正18年3月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。当初は碓井峠を越えてきた真田昌幸らに対して勝利し、駿豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛であったが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城。4月から約3か月にわたって小田原城に籠城する。その後、領国内の下田城松井田城玉縄城岩槻城鉢形城八王子城津久井城等の諸城が次々と落城。22万を数える豊臣軍の前には衆寡敵せず北条氏は降伏した。

俗にこの際、1か月以上にわたり北条家家臣団の抗戦派と降伏派によって繰り広げられた議論が、小田原評定の語源になったと言われている。

神奈川県小田原市内の北条氏政、氏照の墓
神奈川県箱根町早雲寺の北条五代の墓。左から二番目が氏政の墓。

秀吉は氏政らに切腹を命じ、氏直らを高野山に追放すると決めた。7月5日、氏直が自分の命と引き換えに将兵の助命を乞い、降伏した。氏直の舅である家康も氏政の助命を乞うが、北条氏の討伐を招いた責任者として秀吉は氏政・氏照及び宿老の松田憲秀大道寺政繁に切腹を命じた。7月11日に氏政と氏照は切腹した[22]。「寛政重修諸家譜」の江戸幕府奥医師の田村安栖家系譜などでは、侍医で京都紫野大徳寺住職日新和尚の兄で笠原弥六郎(笠原越前守養子)の実父にあたる田村長傳(安栖)の宅で切腹したとされる。享年53[23]静岡県富士市源立寺に首塚がある。墓所は神奈川県小田原市内(小田原駅東口)[24]と同箱根町に存在する。

辞世は、

  • 「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
  • 「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」。

ここに戦国大名としての後北条氏は滅んだ。

家康の親族(婿)であった氏直は助命され、生活費としての扶持が与えられていた。更に翌天正19年(1591年)8月には秀吉により1万石が与えられ、大名としての名跡復活の動きもあったとされるが、同年11月に死亡したため、後北条氏の系統は氏規が継承し、氏直の領地1万石の一部も継承、江戸時代に氏規の子・北条氏盛河内狭山藩主となり、明治維新まで存続した。

人物・評価[編集]

家族思いの人物であった模様で、有能な弟達と常に良好な関係を維持していた。愛妻家でもあり、正妻の黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられているが、氏政本人は最後まで離婚を渋っており、氏康の死の直後に武田と和睦した際には真っ先に妻の遺骨を貰い受け手厚く葬っている[25]。ただし、離婚の話そのものが1970年代に史料の誤読から作られた話で他の同時代史料からは確認できず、実際には黄梅院は最後まで氏政と一緒に暮らしていたとされる[8][9][10]

北条氏滅亡時の実権者とはいえ、父である氏康の時代以上に勢力を拡大したその治世や、良好な関係の兄弟と協力し合い、良き臣下に支えられて、合戦でも武功を挙げている点など、決して無能な武将というわけではない[26]。秀吉に徹底抗戦したことについては、これまでは氏政が無能であり、時流、及び秀吉との圧倒的な国力の差を把握できていないことが原因という、氏政の暗愚な資質に原因を求める評価が主流であった[27]。一方で、東国の武家は源頼朝以来中央政権から自立するような志向が強く、そうした、「東国武家社会の伝統性」を、徹底抗戦の根拠とする見解もある[28]。また、最初から秀吉は北条氏を殲滅させるつもりであった[29]、という見解もある。黒田基樹は、「東国武家社会の伝統性」や、「氏政が暗愚であった」ことを徹底抗戦した根拠とするものに対して、徳川・長宗我部・島津と、有力大名達は概ね豊臣秀吉と武力対決しており、早めに恭順した上杉景勝と毛利輝元は、それ以前、織田政権と激しく争い追い詰められていたため、中央政権の強力さを知っていた故恭順したとして、「当主の資質の優劣」や「地方特有の伝統性」などが原因ではなく、「有力大名に普遍的にあるもの」こそが基盤にあるとして、これらの見解に反論している[29]。その上で、島津氏や長宗我部氏は本拠地が攻撃される前に降伏しており、本拠地まで攻撃される最終段階に至るまで抗戦したために、北条氏は滅ぼされるのは当然であった、と指摘する[29]

後水尾天皇の勅撰と伝えられる『集外三十六歌仙』の32番に一首を採られている[30]

守れ猶君にひかれてすみよしの まつのちとせもよろづよのはる — 32.寄松祝 北条氏政

逸話[編集]

北条氏政の逸話には否定的な印象を与えるものが多い。先述の通り、氏政は必ずしも無能な当主だったわけではなく、こうした逸話には後世の創作も多いと思われる。

汁かけ飯の話
氏政の有名な逸話として二度汁かけの逸話がある。食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったのでもう一度汁をかけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話である(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、の意)。同様の内容は毛利氏元就輝元の間の話としても伝えられている[31]。氏政を暗愚とする評価は、18世紀半ばの『関八州古戦録』(巻十七)(人物往来社刊)あたりが古い[1]
麦の話
17世紀前半の『甲陽軍鑑』(巻十一)(『甲陽軍鑑大成』)(汲古書院刊)に見える逸話で、氏政が農民が麦を収穫しているのを見て、あの採れたての麦で昼飯にしようと言ったというもの。それを伝え聞いた武田信玄が、収穫した麦が食べられるようになるまで、どれくらいの過程が必要なのかも知らないのかと、氏政をさげすむという話。氏政を低く評価する素地が生まれた可能性がある[1]

系譜[編集]

両親
兄弟姉妹
妻妾
子女
猶子
養女

偏諱を与えた人物[編集]

関連作品[編集]

軍記
能楽
映画
テレビドラマ

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 西堂丸は氏政の弟である上杉景虎の幼名としても使われているが、天文18年段階で景虎は誕生していない。また、健在である兄弟が同じ幼名を使うことはないので、西堂丸を名乗っていたのは景虎誕生前に死去した氏親となる。
  2. ^ なお、勝頼は北条氏に対して常陸佐竹氏との甲佐同盟や安房の里見氏ら関東の諸族と同盟関係を結んでいる一方、同時期には織田氏との和睦を試みている(甲江和与)。
  3. ^ 氏政は秀吉への全面従属には反対であったため、親徳川の氏直をたてたとされるが、後に氏政自身が上洛することを家臣・国衆に通知しており、氏政が主戦派であったとの見解については疑問がある。また、氏政自身は沼尻の合戦を最後に自ら出陣することをせず、氏直に官途名の左京大夫を譲るなど、公の場では氏直をもって北条氏の当主としていた[20]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 黒田 & 浅倉 2015
  2. ^ 黒田 2019, p. 10.
  3. ^ 黒田 2012.
  4. ^ 黒田 2019, pp. 10–11.
  5. ^ 黒田 2019, p. 11.
  6. ^ 黒田基樹「北条「新九郎」氏政について」『戦国史研究』21号、1991年。
  7. ^ 佐脇栄智「小田原北条氏代替わり考」『日本歴史』93号、1956年。/所収:佐脇栄智『後北条氏と領国経営』吉川弘文館、1997年。
  8. ^ a b 浅倉直美「北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直」『武田氏研究』第59号、2019年1月、1-13頁。 
  9. ^ a b 海老名真治 著「氏康と武田信玄-第一次甲相同盟の展開-」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戎光祥出版〈戦国大名の新研究2〉、2021年、296-297頁。 
  10. ^ a b 黒田 2020, pp. 9–12.
  11. ^ 同年10月8日付け、氏康から謙信宛の書状より(上杉家文書
  12. ^ 上杉家文書・御書集・展観入札目録
  13. ^ 上杉家文書、氏政から由良正繁宛書状・集古文書
  14. ^ 『戦国遺文』後北条氏編 - 2197号
  15. ^ 黒田 2020, p. 13.
  16. ^ a b 黒田 2012, p. 157
  17. ^ a b 黒田 2018, p. 170.
  18. ^ 黒田 2018, p. 171.
  19. ^ a b c 黒田 2012, p. 159.
  20. ^ 黒田 2020, p. 14.
  21. ^ a b 黒田 2018, p. 239.
  22. ^ 黒田 2018, p. 252.
  23. ^ 黒田 2018, p. 253.
  24. ^ 歴史と文化の香るまち散策コース 神奈川県県西地域県政総合センター商工観光課、2021年11月18日閲覧
  25. ^ 黒田 2005.
  26. ^ 下山治久『小田原合戦』角川書店、1996年。
  27. ^ 黒田 2012, p. 220.
  28. ^ 黒田 2012, pp. 220–221.
  29. ^ a b c 黒田 2012, p. 221.
  30. ^ 酒井抱一・集外三十六歌仙(姫路市立美術館)
  31. ^ 宮本常一『家郷の訓』(岩波文庫 青 164-2)ISBN 4003316428
  32. ^ 茨城県史 1986, p. 323.
  33. ^ はかなき我が身 天下人 能を舞う”. 読売新聞 (2013年9月4日). 2018年2月6日閲覧。
  34. ^ 能楽師・柴田稔Blog:2007年7月17日[1]
  35. ^ 北條五代祭り 高嶋政伸さんの「氏政」に大声援 小田原”. 毎日新聞 (2017年5月4日). 2017年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月5日閲覧。
  36. ^ 第54回北條五代祭り 勇姿ふたたび 早雲 合田雅吏さん、氏政 高嶋政伸さん”. タウンニュース. 株式会社タウンニュース社 (2018年3月3日). 2018年5月3日閲覧。
  37. ^ 北條五代祭りで勇壮戦国絵巻 一族役に合田さん、高嶋さん”. カナロコ. 神奈川新聞 (2019年5月4日). 2019年8月1日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)』 神奈川県企画調査部県史編集室、1973年。
  • 『栃木県史料所在目録〈第3集〉芳賀郡』 栃木県教育委員会事務局、1973年。ASIN B000J9EIOG
  • 茨城県史編集委員会 監修『茨城県史』茨城県〈中世編〉、1986年3月20日。NDLJP:9643628 (要登録)
  • 鈴木良一『後北条氏』 有隣新書、1988年。ISBN 4896600827
  • 歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡学習研究社、1989年。ISBN 405105151X
  • 杉山博下山治久 編『戦国遺文 後北条氏編 第1~6巻』東京堂出版、1989年~1995年。
    1. ISBN 978-4-490-30427-5
    2. ISBN 978-4-490-30428-2
    3. ISBN 978-4-490-30429-9
    4. ISBN 978-4-490-30430-5
    5. ISBN 978-4-490-30431-2
    6. ISBN 978-4-490-30432-9
    • 下山治久 編『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』東京堂出版、2000年。ISBN 9784490305753
  • 藤木久志; 黒田基樹 編『定本・北条氏康』高志書院、2004年。ISBN 4906641911 
  • 黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X 
  • 黒田基樹『戦国北条氏五代』戎光祥出版〈中世武士選書8〉、2012年。ISBN 978-4-86403-056-4 
  • 黒田基樹; 浅倉直美 編『北条氏康の子供たち』宮帯出版社、2015年。ISBN 978-4-8016-0017-1 
  • 黒田基樹『北条氏政 乾坤を截破し太虚に帰す』ミネルヴァ書房、2018年。 
  • 黒田基樹「北条氏政の研究」『北条氏政』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二四巻〉、2019年。ISBN 9784864033091 
  • 黒田基樹「総論 北条氏直の研究」『北条氏直』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二九巻〉、2020年。ISBN 978-4-86403-349-7 
  • 山口博『北条氏康と東国の戦国世界』夢工房〈小田原ライブラリー 13〉、2005年。ISBN 4946513973 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]