伊勢神宮の式年遷宮とは?「20年ごとに行われる真の理由」

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伊勢神宮には古来、1300年間続けられている最大の儀式として式年遷宮があります。

以下では、伊勢神宮の式年遷宮について述べています。

まず・・「式年遷宮」とは?

伊勢神宮・式年遷宮式年遷宮とは、「しきねんせんぐう」と読みます。

式年遷宮の意味を紐解く前に、「式年」と「遷宮」に分けて考えると分かりやすいです。

「式年」とは?

式年遷宮の「式年」とは「定められた年」と言う意味になります。

式年の例として「式年祭」というものがありますが、これも同様に定まった年に執り行う祭典のことです。

「定められた年」とはタイトルの通り、伊勢神宮の場合は「20年ごと」になります。

伊勢神宮の遷宮は殿舎を別の敷地に新調しますので、別名で「式年造替(しきねんぞうたい)」もしくは、「正遷宮(しょうせんぐう)」とも呼称されます。

なぜ20年なのか?・・と言う理由に関しては諸説あるようですが、もっともな理由としては「天武天皇が定めたから」と言うのがこれに当てハマります。

「遷宮」とは?

「遷宮」とは、「殿舎(お宮)」もしくは「御祭神(神様)」を別の場所に遷す(うつす)、いわゆる移動させることです。

よって「式年遷宮」の意味とは、「”定められた年=20年”ごとに神様を新しく造営した殿舎へ遷す」と言うことになります。




遷宮が20年ごとに執り行われる理由

すでに上述したように天武天皇の御発意によって式年遷宮期間は20年と定められましたが、天武天皇はいったいなぜ20年とお決めになられたのでしょうか?

実がこの理由は明らかにされておらず、いっさいが謎とされており、これは伊勢神宮の記録にも残されていないようです。

しかし現在では式年遷宮が20年ごとに執り行われる理由として、主に以下のような理由が述べられています。

  1. 天武天皇の御発意によるものだから
  2. 街の活性化(式年遷宮を行うことによって日本全体の活性化。ちなみに伊勢の街々は20年(式年遷宮)を基準として造り替えが行われる)
  3. 用材の耐用年数が20年が限界(寿命)(宇治橋の表面は20年経つと3cmもスリ減っている)
  4. 用材は樹齢200年〜300年のヒノキと決められている。用材の育成度合いなど揃えられる最小限界年数が20年。
  5. 常に清浄な環境で神々をお祀りするため。もしくは大御神が常に清浄な空間を御所望されるため。
  6. 大御神の御神威と御神徳を永遠に伝えるため
  7. 次の世代(弟子)に神宝作りの技を伝承をするための年月が約20年
  8. 神嘗祭で供進される神饌(穀物類)の最長保存年限が20年(実際に調査で20年であることが判明しているそうです。)
  9. 歴代天皇の遷宮が停止されたため(飛鳥時代を例えての説)
  10. 旧暦では約20年に1度、立春と元旦が重なる日があり、最大の吉日とされたため。

1.」の天武天皇については、伊勢神宮にご祈願された後、古代日本最大の戦争とされる「壬申の乱(じんしんのらん)」に勝利したことから、戦後以降、伊勢神宮へ多大な崇敬を寄せるようになっています。

その他、神宮の殿舎群で20年間の日本全体の様々な穢れを吸い取っているとも云われます。つまりは殿舎を新造することによって新たに穢れを吸い取れる状態にしているとも考えられています。

ちなみに神道ではこのことを「常若(とこわか)」と呼び習わしています。

7.」に関しては、持統天皇以前の天皇は自らが即位すると遷宮(都を移し替える)を行うことが慣例のようなものだったのですが、この理由はすべてをリセットして若々しい活力と権威に満ちた自らの治世にするためだとも考えらています。

しかし第41代の持統天皇に関しては藤原京(橿原市)を建設し、恒久的に不動の都にしようと考えたため、こうなると以降の天皇はすべて藤原京より動くことがなくなります。

すなわち以降の歴代天皇における遷宮が行われないことから、その代わりに充てがわれたのが伊勢神宮においての遷宮であったとも考えられており、伊勢神宮の遷宮を行うことで自らの権威を示したとも言われています。

なお、式年遷宮は天武天皇の御発意によるものですが、厳密には次代天皇となる「持統天皇」の時から開始されています。これは持統天皇が天武天皇の皇后(奥方)であり、愛した旦那の遺言だったこともあり、意志を引き継ぐ形で式年遷宮を制定しています。




伊勢神宮の式年遷宮は厳密には元来19年周期だった?!「朔旦冬至と式年遷宮」

一般的に伊勢神宮に式年遷宮は20年周期で知られていますが、実は現在に至るまでの式年遷宮の歴史を見ていくとなんと!もっとも多いのが19年ごとに執り行われているのです。

例えば、第1回目の内宮遷宮は690年(持統4年)、第1回目の外宮遷宮は692年(持統6年)。次いで第2回目の内宮遷宮は709年(和銅2年)、第2回目の外宮遷宮は711年(和銅4年)と、外宮は内宮より2年遅れで斎行されているのが分かります。

以来、戦国期に一旦、中止された約100年間を除けば、19年ごとのペースで斎行され、1609年(慶長14年)の第42回目の遷宮を境に20年周期になっています。またこの時より内宮・外宮の遷宮が同時に斎行されるようになっています。

式年遷宮には「朔旦冬至」が影響していた?!

19年ごとに執り行われた理由は現在に至っても謎とされていますが、一説には旧暦の「朔旦冬至(さくたんとうじ)」の日が大きく関与しているとも考えられています。

朔旦冬至とは、およそ19年周期で巡ってくるとされる「旧暦11月1日」が「二十四節気の冬至とが重なる日」のことです。

朔旦とは、旧暦の毎月1日(もしくは1月1日)を指し、冬至とは12月20日頃を指します。

実は、朔旦冬至の日は、旧暦(太陰太陽暦)においては最重要とされた日の1つであり、この理由は朔旦冬至の日だけは19年に1度、太陽軌道を基にした二十四節気の「冬至」と、月の軌道を基にした「朔旦」が見事に一致する日だったからです。

現在の太陽暦とは異なり、旧暦は太陰暦(月の軌道)と太陽暦(太陽の軌道)が合わさった暦法になりますので、暦にズレが生じます。しかし、暦のズレがあったとしてもキッチリと合致する日が朔旦冬至です。

このため朔旦冬至の日は、すべてがリセットされる「原点回帰の日」と神聖視され、例えば、古代中国の宮廷では宴が盛大に行われたりしたそうです。

一説にはこの伊勢神宮の式年遷宮も、すべてをリセットして新たなステップとした原点回帰の思想に基づき、この朔旦冬至の日となる19年ごとに斎行していたのではないのかとも考えられています。

式年遷宮はいつ頃から始められた?「式年遷宮の起源」

上述したように、伊勢神宮の式年遷宮は690年(持統天皇4年)の年にまず内宮で第1回目が開催され、次いで692年に外宮の遷宮が執り行われています。

ただし、「日本書紀」や「続日本書紀」には「内宮785年(延暦4年)の第6回目」、「外宮の第10回目となる870年(貞観12年)」の記述しかないことから、第1回目の遷宮の年代は不鮮明な部分があり、一説では「外宮先祭」の大原則に則って外宮の遷宮が先であったとも考えられています。

ちなみに直近の式年遷宮となるのが2013年(平成25年)10月であり、第62回目となります。

えぇっ?!式年遷宮は実は過去に1度中止になっていた?!

神宮における式年遷宮は690年以降、現代に至るまでに約1300年の歴史を持ちます。

しかし、室町時代(南北朝時代から戦国時代)には一時期、遷宮が約130年間も中止された時期がありました。

  • 内宮:1462年(寛正3年 )から1585年(天正13年)まで※約130年間
  • 外宮:1434年(永享6年)から1563年(永禄6年)まで※約130年間

これは戦乱が相次ぎ、世の中が荒れ果てて人々の心も荒んでしまい、神社へ参拝すると言った余裕がなかったことが背景にあります。

しかし例えば、内宮では「慶光院周養(けいこういんしゅうよう)」と呼称される山田西河原(現在の伊勢市宮後)にかつて存在した臨済宗の寺院の尼僧が、日本全国を駆けずりまわって勧進(浄財を集め)を行い、120年ぶりに何とか遷宮を復興させるに至っています。

外宮では「慶光院 清順(けいこういん せいじゅん)」と呼称される尼僧が浄財(資金)を集めています。

これら慶光院の尼僧たちは巧みな話術を活かし、仏教勢力との仲立ちを図ることで織田信長や太閤秀吉と言った時の権力者たちをパトロンにしています。

これについて言及すれば、織田信長は3000貫文、太閤秀吉は金子500枚に米1000石も寄進しています。

以降、江戸幕府→明治政府と、国家主導に引き継がれ、今日に至るまで中止されることなく、20年周期(満21年)で執り行われています。

なお、昭和時代に入ると太平洋戦争が勃発し、第59回式年遷宮があやうく中止されるところでしたが、かろうじて宇治橋架け替えのみ実施され、1949年の第59回式年遷宮が4年遅れ(1953年)に斎行されています。

これは宇治橋の遷宮が4年前に先立って執り行われる理由にもなっています。

神宮には「外宮先祭」という大原則があるが、式年遷宮はやはり内宮から!!

伊勢神宮には、「天照大御神が外宮から先に祭典(神事)を執り行うように」というご神託のもと、以来、「外宮先祭(げくせんさい)」といって外宮から祭典が執り行われるのが絶対とされています。

しかし、この式年遷宮に関しては内宮から先に執り行われています。

これはやはり、式年遷宮が一概に祭典とはみなされず、殿舎の造り替えになりますので、歴代の天皇や神職の方々の配慮であると考えられます。

つまり、天照大御神が如何に尊い存在であるのかが理解できるというものです。

えっ!式年遷宮は8年前から行われ30もの行事や祭典の総称を遷宮と言う!?

式年遷宮とは言っても単純に遷宮1つの行事ではなく、約30もの行事と祭典を総称したものが式年遷宮となります。

式年遷宮は20年ごと(満21年目)に執り行われますが、実際はその8年も前から遷宮に向けての行事や祭典が執り行われています。

えぇっ!式年遷宮は実は3種類もあった?!

実は式年遷宮には、他に2種類存在すると言えば驚かれますでしょうか?

式年遷宮には、通常の20年毎に執り行われる式年遷宮の他、次のような2つの遷宮があります。

  • 仮殿遷宮
  • 臨時遷宮
「仮殿遷宮」とは?

仮殿遷宮とは、20年毎の通常の式年遷宮を終えた後、しばらく経て、例えば殿舎や心御柱に老朽化や自然災害によって破損があった場合に設定される遷宮になります。

この場合は、御仮殿という仮に造営した殿舎に御神体を遷して(うつして)もとの殿舎を修理(改修)します。

そして修理が終了すれば再び、もとの殿舎にお戻しするので、これを「仮殿遷宮」と呼称します。

「臨時遷宮」とは?

臨時遷宮は早い話が、自然災害などで殿舎が倒壊してしまい、修理するのが不可能と判断された場合、あたらに殿舎を新造することを「臨時遷宮」と言います。

臨時遷宮は臨時で突発的に行う遷宮となり、殿舎も新たに新造しますので、これは内容的には式年遷宮と変わらないことになり、本格的な遷宮になります。

「仮殿遷宮」と「臨時遷宮」が過去に執り行われた回数

これらの仮殿遷宮や臨時遷宮は、あまり公式的には公表されていませんが、過去に数回執り行われています。

仮殿遷宮は修繕になりますので回数も多く、過去に内宮で57回、外宮で64回も執り行われています。

一方、臨時遷宮は通常の遷宮と規模が変わらないことから、過去に内宮のみで、わずか5回だけ執り行われています。具体的には次のような年になります。

  • 792年(桓武天皇)
  • 1169年(高倉天皇)
  • 1659年(後西天皇)
  • 1683年(霊元天皇)
  • 1900年(明治天皇)

以上、合計5回。

式年遷宮の祭典・行事の順番

式年遷宮は主に3つに分類することができます。

用材切り出しの儀式「山口祭」

まずは新しい社殿に造り替えますので、そのための用材の切り出しが約8年前から始まります。

8年に行われる理由とは、切り出した大量の用材を搬出したり加工するのに膨大な時間と人の力が必要になるからです。

切り出しの際は、山ノ神がお宿りする御神木にオノを入れますので、山ノ神を鎮めるために「山口祭(やまぐちさい)」と言う神事(儀式)を行います。

造営開始の儀式「木造始祭」

用材の切り出しと加工が完了すれば次に行わるのはいよいよ造営です。

その造営開始の儀式を「木造始祭(こづくりはじめなさい..アレ?、あイヤイヤイヤ、「こづくりはじめさい」!!)」と言います。..ポっ

最後はいよいよ新居へ神様の引越しの儀式「遷御」

造営が完了すると、今度は新居へ大御神をはじめとした神々をお遷しします。

そのために行う儀式が「遷御(せんぎょ)」の儀式です。

以上、これらの手順を踏んだ祭典や神事のすべてが式年遷宮となります。




ええっ?!宇治橋の遷宮は4年前から行わる??

実は神宮における遷宮の新造は、まず宇治橋の架け替えから行われます。

宇治橋の架け替えは遷宮の約4年前から執り行われ、切り出された用材を外宮の付近に位置する「山田工作場」にて「小工(こだくみ)」と呼称される大工が約100人ほど集まり、加工して管理しています。

小工は棟梁(とうりょう)を支える重要な役目を担う方々で、棟梁から指示のあった用材を素早く取り出せる状態を確保しなければなりません。

このため、大量の用材の中からドコにどんな用材があると言ったをすべて把握しています。

そして完成後には「宇治橋渡始式」が執り行われます。

宇治橋渡始式や宇治橋に関しては当サイトの以下↓の別ページでご紹介しております。

 関連記事:伊勢神宮(-JINGU-)◆ 宇治橋(UJI-BASHI)

式年遷宮で社殿以外に新しくなるもの

上述したように式年遷宮においては、神宮全体の建物がほぼすべて作り替えられますが、その他に「神宝類(しんぽうるい)」も新調されます。

神宝類とは大御神をはじめとした神々に供進するためのお供え物(生活の道具や刀剣類、衣類)になります。

その数も714種、1576点と言う膨大な数となり、これらの神宝類を遠い昔からの伝統の技を受け継いできた職人たちによって(人間国宝の職人も数十人が参加)、1点1点、1パーツ1パーツ丁寧に手作りで制作されます。

1つの神宝を制作するためには、まずどういったパーツが必要になるのかを明確にして、そのパーツごとに職人を手配して1人1人の職人に図面を渡します。

そして最終的に仕上がった1つ1つのパーツを、別の職人が組み上げて1つの神宝を完成させます。

これらのパーツは大昔から受け継がれる技法や材料を用いて、寸分たがわぬ造形で制作されます。

神宮の遷宮のために設置された新しい機関「神宮式年造営庁」

尚、上述では伝えませんでしたが、式年遷宮は神宮における最大の行事であり神事になります。

また、現代では式年遷宮の社会的経済効果もあり、式年遷宮と言うだけで世の中のあらゆる指数が動きます。

このような大きな祭典と言うこともあってか、神宮内では平成17年から「神宮式年造営庁」を発足させています。

一般には知られていない!その他に遷宮で新調される意外な「こんな物」

これはあまり知られていませんが、他にも遷宮で新調される重要な物があります。

この重要な物とは、どちらかと言うと「神宮から見た目線においての最重要的な物」となります。

何だかお分かりでしょうか?

察しの良い方であれば気付いてしまうかもしれませんが、その物と言うのが「心御柱(しんのみはしら)」です。

別名で「忌柱(いみばしら)」や「天御量(あまのみはかりのはしら)」「天御柱(あまのみはしら)」とも呼称されます。

心御柱とは内宮外宮の正宮・御正殿の真下に埋まっている柱であり、殿舎を構成する部材ではないことから、その存在がいっさい謎とされている柱になります。

大きさは人間の身長ほどあり、一説では歴代の天皇の身長を測定して造られていたとも考えれられているものです。

心御柱が埋まっている場所は既に上述していますが、現在の内宮・外宮の両正宮の「御正殿(ごしょうでん)」と前回、正宮が建てられていた場所である「古殿地(こでんち)」に埋められています。

古殿地を見学された方であればお分かりでしょうが、古殿地の中程にポツンと寂しく建っている「小さな小屋(覆屋(おおいや)」の中に心御柱が埋まっています。

古殿地に関しては当サイトの以下↓の別ページでご紹介しております。

 関連記事:伊勢神宮(-JINGU-)◆ 古殿地(KODENCHI)

心御柱の遷宮

心御柱は神宮にとっては非常に重要な物であり、殿舎の下に埋まっている理由と言うのも、次回の遷宮においての御正殿の位置を明確にするための目印の役目もあります。

その他、御正殿でお祀りされる御神体の位置までもを明確にするためと目印であるとも言われています。

これがどういうことかと申しますと、心御柱の真上に従来の形式通りに寸分違わず御正殿が建ち、さらにその御正殿の中でも心御柱の真上に寸分違わず「御神体(大御神の場合は神鏡)」がくるようにしなければならないとされています。

そしてこの心御柱の遷宮における儀式の順番は以下の通りです。

1.木本祭(このもとさい)

これから殿舎を新造するのでその用材を採るために、森林を守護する山の神に対する儀式です。木を伐採するので山の神を鎮めるための儀式でもあります。

 2.地鎮祭(じちんさい)

新しい心御柱を建てる場所(地面)を守護する土地神に対する儀式です。穴を掘るので土地神様をお鎮めします。詳しくは土地神に「カワラケ」と呼称される「素焼きの陶器」を800枚ほど奉納します。

3.心御柱奉納環の儀・奉建の儀

地鎮祭が終わると今度はいよいよ心御柱を埋めることになります。

埋める場所は前回、心御柱が埋まっていた場所となり、御柱がキレイに埋まるよう微調整をしながら穴を堀ります。

ちなみに、この時、掘った穴は「忌穴(いみあな)」とも称されます。

また、心御柱を埋める際は「榊(さかき)の葉」が8枚ほど取り付けられ、さらに「5色の糸(青・赤・黄・白・黒)」が巻かれます。

心御柱が形式通りに埋まれば、最後に「お粥(かゆ)」が供進されて(お供えされて)終了となります。

ところで・・心御柱を新調すると言うことは前々回の心御柱はどうなるの??

新たに御柱を新調すると言うことは「前々回に埋めた御柱はどうするのか?」が、問題になります。

実のところ、この前々回の心御柱に関しては「秘儀中の秘儀の儀式」が執り行われると言われており、秘儀担当の神職以外は誰も知らないと言われています。

また神宮内でも心御柱の話をするのは、いっさいタブーとされているようです。

一説によると、人が寝静まった真夜中に心御柱を埋葬する担当の数人の神職のみが寄り集まり、内宮と外宮の間に位置する「地獄谷(地極谷/じごくだに)」と呼称される場所でヒッソリと埋葬の秘儀が執り行われると言われています。

その様子はまるで高貴な身分の人を埋葬するかの如く、始終、慎重かつ丁寧に執り行われるそうです。




式年遷宮における「社殿造り替えの材木」に関して

伊勢神宮では、遷宮時の社殿を造り替える材木を、本来であれば伊勢神宮の神域や、その周辺の山々(神路山など)にそびえる巨木を使用することで賄われてきました。

※注釈※=巨木とは樹齢800年から900年ほどのヒノキを指し示します。

ちなみに神宮では遷宮のために用材を切り出す山のことを「御杣山(みそまやま」と呼ぶ。

しかし、ここ近代に至っては、自然災害などの影響もあって、神域の木の数が従来よりも激減しており、さらに神宮の神域の木が昔のように育成していない状況にあります。

つまり、現在の神宮神域内におけるすべての社殿を造り替えるほどの量の材木が、確保できないことになる。

神宮備林

そこで江戸期以降、現在に至るまで、「神宮備林(じんぐうびりん)」と呼ばれる「信州・長野県木曽郡周辺のヒノキ」を主に使用して社殿の造り替えを行っています。

「神宮備林」とは「帝室林野局(現在の宮内省・林野庁)」が指定した森林でもあり、すなわち、国有林としての側面を持っています。

現在、神宮では1923年(大正12年)に「神宮森林経営計画」を打ち立てて植林を行っていますが、これらの木々が育ち用材として使用できるまでには約200年!はかかると言われています。

「200年」と言えば途方もない年月ですが、あと200年経てば、その後は従来通り半永久的に御杣山から用材を切り出すことができます。

伊勢神宮の遷宮で使用される素木について

伊勢神宮で使用される素木について

伊勢神宮で使用される素木(丸太)ですが、なんと!木を切ってそのまま使用するのではなく、2年から3年もの間、水に浸けておくそうです。

2年から3年もの間、水に浸ける理由とは、一言でいうところの「乾燥」にあります。

つまり、水に浸けることによって乾燥させているわけなのです。

「水に浸けて乾燥?」

・・などと、思わず口からポロっと飛び出してしまいそうになりますが、実は水に浸けることによって、木の中にある「大量の樹液」を抜いているのです。

樹液を抜くと、木の性質として乾燥後に水分を含みにくく、ヒビ割れなどが生じにくくなり、数十年もの間の耐久性を備えることができます。

水に2年から3年浸したあとは再び地上へ揚げて、そこからまた1年ほど乾燥させます。

このように社殿の造り替えには、たくさんの知恵(技術)と時間、そして、人の力が必要になっています。

まさに、労働という苦労を伴いながらも「遷宮」という大きな目標に向かって、人と人が織りなす壮大なドラマと言い換えることができます。

ところで、古い社殿の材木はまさか・・捨てる??

現在、遷宮で使用される用材の数は約1万3000本、このうち「木曽産のヒノキが77%」、「内宮・外宮周辺の山々のヒノキが23%」の割合で使用されたらしい。(※平成25年の遷宮時の統計)

木曽産のヒノキは強度があり最高級品質であることから、御正殿や社殿などに使用され、それ以外の部位、例えば御垣(垣根)などには間伐材が使用される。

しかし、遷宮で新しい社殿が完成すれば、以前の社殿は必要がなくなります。

そこで解体作業が行われますが、問題は「解体された後の古材をどうするか?」です。

古材は全国の諸所で再利用される

古材と言えども20年に渡って社殿を守り、はたまた多くの人々の信仰の念が寄せられ、多くの神徳を帯びています。

よって捨てるのは大変、バチあたりな行為であり、はたまた最高級品質のヒノキなので、まだまだ使用ができます。

また、再利用を促進することで森林を不当な伐採から守ることもできます。

そこで古材たちには、「再利用」という形で新たな人生のスタートが待っています。

例えば、神域の宇治橋の鳥居は前回の遷宮時の古材が使用され、さらに宇治橋の古材は、伊勢亀山に現存する「関の追分(せきのおいわけ)の鳥居」、もしくは同じ伊勢桑名の「七里の渡しの鳥居」に使用されます。

他は日本各地にある神社の社殿改築にも利用され、およそ60年ほど繰り返し利用されていると言います。

これら様々な場所で繰り返し利用されている事実をもってしても、神宮の社殿に使用されているヒノキが「最高級のヒノキ」と言われる所以が理解できるというものです。

【補足】神社やお寺の建築でなぜ、ヒノキ(檜)が使われるのか?

神社やお寺の建築でなぜ、ヒノキ(檜)が使われるのか?近年においては、立て続けに国民的人気を誇る、2大スターともいうべきお社が、ほぼ同時期に遷宮の時期を迎えています。

「2008年(平成20年)4月に出雲大社」

「2005年(平成17年)10月に神宮」

遷宮の開始時期は異なりますが、双方のお宮の遷宮式が、2013年度に同時に執り行われています。

この双方のお社の遷宮の木材に関してですが、2つのお社とも「檜(ヒノキ)」が使用されています。

また、奈良・法隆寺を代表とした古代木造建造物にもヒノキが多数使用されています。

なぜ、ここまでヒノキが重宝されるのでしょうか?

まず、社殿やお堂の造り替えを行うには、たくさんの木材が必要になります。

また工事の期間も何年とかかります。

すなわち、使用する(伐採する)木材量の限界や、人足の関係、時間(期間)などからみても、何度も簡単に建て替えができないといったことになります。

つまり、1度造り替えをすれば、その後、何十年と建物を維持しなければなりません。

そこで、耐久性を兼ね備えた木材が必要になってきます。

このような諸条件に適した木材こそが「ヒノキ」だということです。

ただし、ヒノキは強度はあるのですが、その半面、諸刃の剣として「燃えやすい木」としても有名です。別名で”火の木”とも呼ばれているほどです。ヒノキが燃えやすいのは、油分を多く含むからです。

神宮では、特に御神体をお収めする「御樋代木(みひしろぎ)」と呼称される器に関しては、木曽産のヒノキを使用するように定めているようです。




ヒノキの特徴

ヒノキの特徴↑ヒノキとヒノキの実

材質

  • 細胞が細かい
  • 他の木材と比較しても弾力性がある=揺れに強い
  • 軟らかいので「しなり」がある。
  • 水を吸って乾燥しても原型を維持できる
木の特性

  • 木目にゆがみがない
  • 虫(特にシロアリ)に食われにくい
  • 湿気に強い
  • 多数の特性を併せもつので、薬剤を用いたメンテナンスがあまり必要ない
  • 身体の芯まで染みわたるようなイイ匂いがする
  • 油分を多く含むので燃えやすい(古代ではヒノキの油分を利用して火力を調整していたほど)

このように多数の特性を持ち併せ、さらに何百年もの時を経ても、原型を損なわず維持できる木材は、ヒノキしかないとのことで、社寺建築には必ずといって良いほど、ヒノキが使用されています。

ただ、やはりヒノキの最大のデメリットとなるのが油分を多く含んでいることが挙げられます。

燃えやすいデメリットを知った上であえてヒノキを使用するのは、それだけ耐久度が他の材木にも勝るといったことでしょう。

萱(かや)の育成も必要

伊勢神宮の社殿は往古よりのスタイルを踏襲すべく、屋根には萱(かや)が用いられる。

神宮の神域の中には萱が植栽された山が約100ヘクタールほどあります。

「萱」は単に刈り取るだけではなく、刈り取るための時期や管理が重要になってきます。

神宮の式年遷宮において葺かれる萱は、「直径約4cm束の萱」が「23000束」!!も必要になります。

数十年という年月を経て尚も社殿を護り続ける頑強且つ、健康な萱を育成するためには、刈り取り時期ではなくても、小マメな刈り取りが必要になるらしい。

そこで神宮では萱を管理するための部署・営林部を設けて、式年遷宮の5年ほど前から毎年、12月から3月の間、毎日、刈り取りを行っています。

刈り取った萱は即座に長さを均等に揃えられ、キレイな状態にして保存されます。

例えば、萱を切り出した時に長さが短い萱が出来てしまうと、束ねた後で短い萱だけをカラスが簡単に抜きとってしまうんだそうです。

抜かれた部分ができると空間が出来て抜けやすくなり、次々とカラスに抜かれてしまうので型崩れすることになります。

以上、長さを均一にして揃えておくのはこのような理由があるからです。

神宮ではこの萱葺きの作業に、日本全国の萱葺き職人に声をかけて、もしくは自らの御意志で来ていただき、作業を手伝ってもらっています。

このようにして遷宮には多くの時間と多くの材料、そして団結と言う名の人の力が必要になっています。

職人たちの技も子から子へと半永久的に受け継がれる

伊勢神宮は式年遷宮によって社殿を”心臓”がバコバコと激しく鼓動するかの如くに”新造”し、永久的に伊勢神宮を次世代へとつなぐ。

そして忘れてならないのが職人たち。

職人たちにも子供や弟子がいて、次回の遷宮の時には自らが鍛えた愛弟子を一緒に連れてきてくれるんだそうです。

つまり、職人たちも20年後を契機とし、自身の技を次代へと継承する。

遷宮という一つの大きな目標を掲げ、日々、職人技を研鑽し、それを次代へつないでいく。

このような技術の伝承も遷宮が育んだ、我が国が世界に誇る貴重な文化遺産であり、式年遷宮というものが我が国にとってどれだけ重要な意味を成すのかが、身にしみて分か〜るというもの。

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